トップページ > 当会について > 高山歯科医師会100年の歩み
わが国の、歯科医師第一号は,明治8年に歯科医術開業免許状を下付された医籍4号、小幡英之介(1950-1909)いう方です。但し当時、歯科は医科の一分野で口中科と言って、所謂歯科専門医ではありませんでした。 彼は岩倉遣外使節の木戸孝充の歯も治療しており、横浜で開業したアメリカの歯科医師エリオットに、明治3年から8年に帰国するまで教えを受けていたようです。
余談ではありますが、変わり者の外人歯科医師もいて、日本では商売にならないと、持って来た歯科機材、書籍を、後に陶歯の研究に尽力した渡辺良斎に売り渡して、 寄席芸人になったブラックという人がいたようですが、私の記憶が正しければ、日本最初の外人落語家「快楽亭ブラック」と思います。
わが国で、歯科試験科目が新設され歯科医籍第一号に登録されたのが、青山千代治先生で明治17年のことです。岐阜県では、安政6年生まれの愛知県出身の士族鬼頭蔽亮先生が、明治19年、岐阜市の八つ寺町で最初に開業され、県歯会長も二回務められています。
飛騨におきましては、明治36年(1906)、蒲寅三先生が、高山町で開業されました。今の本町1丁目の、法務大臣だった牧野良三宅の並びあったよう聞きいております。 町会議員も務め、短歌も詠んだなかなかの名士でありましたが、歯科医蒲寅三、分けて読むと、鹿、猪、河馬、寅、象と全部動物の名前と言うことで、動物園という愛称で当時の子供たちにも、親しみのある名前だったようです。
この年が、高山歯科医師会100周年の記念すべきスタートの年です。またこの年の10月1日に歯科医師法が施行され、歯科医師の身分と業務が確立しました。ちなみに全国の歯科医師数は丁度700人でした。
明治45年5月、岐阜県歯科医師会が創立され、高山の会員は蒲先生1名でした。その年の7月明治天皇崩御、時代は大正へと移ります。
大正11年(1922)岐阜県歯科医師会で支部会の設置が決まり、岐阜、中濃、北濃、恵那、土岐、西濃そして大野、益田、吉城郡からなる飛騨支部の計7支部に分割されましたが、当時の飛騨支部会員は9名でした。 ちなみに8年後の昭和5年には18名に倍増し、高山、大野郡では8名でした。支部の話題から離れますがこの大正11年に、歯科衛生士のはしりである口腔衛生婦が養成されました。 その4人目に山本千代子、後の演劇夕鶴で「おつう」を演じた、大女優山本安英です。当時の詩人が日記に、診療所の待合室で見る彼女をあまりの美しさに清純な白百合のようだと詠っています。
小学校令改正公布が、大正15年にあり、その年に高山市学校歯科医が設置され、西利吉先生が、東校、蒲寅三先生が西校、須田武一先生が南校を担当されました。 「学校歯科医は県で、高山が一番早かったのでは」と西利吉先生が回顧談で述べています。12月には大正天皇崩御時代は昭和に移ります。
昭和11年11月1日、市制が施行され、高山町と大名田町が合併し高山市が誕生します。人口31811人 7192世帯でした。その年2,26事件があり東京で戒厳令布告。 世界も日本も不穏な空気の中、日本は戦争への道を歩み始めます。医療関係者にも徴用令が公布されました。昭和20年(1945)ポツダム宣言を受諾漸く終戦を迎えます。
戦後GHQの指令により、各県歯科医師会は改組され、昭和22年11月社団法人岐阜県歯科医師会が設立されました。同時に、支部制を取らず各地区歯科医師会として発足。 高山でも藤井糺一先生を会長に高山歯科医師会として、再スタートします、この制度は昭和33年県歯科医師会会長 大竹和男会長の時、支部制が実施されるまで続きます。
昭和27年2月に京都山科で上水道のフッ素化が試みられ、また翌28年に歯科医師法、歯科衛生士法施行令が公布されました。昭和34年第3回岐阜県学校歯科保健大会が高山では初めて開催されました。その後の歯科界以外の出来事として翌35年に高山線でジーゼルカーの運転が始まり、またデンバー市と姉妹都市を結びました。 日本は高度経済成長の中、昭和44年に国民総生産が世界第2位になり、翌45年日本では、初めての大阪万博が開催されました。
話は歯科界に戻りますが、昭和46年飛騨健康管理センターが設立、高山歯科医師会は土曜日午後、全員交代制で予防を中心とした歯科診療を始めました。
昭和51年当ホテルで、高山歯科医師会70周年式典を行い以後、10年ごとに開催し今年100周年を迎えました。また昭和54年には70周年記念誌を発刊しております。
昭和64年昭和天皇が崩御され時代は、平成へと入り当会の活動は時代の多様な要請と共に、多岐に亘っていく中、平成2年には歯科医師会の呼びかけにより当時の高山市、 大野郡、吉城郡の住民の歯科健康、福祉向上を目的とした飛騨口腔保健協議会が、高山市長を会長とし、行政と一体して発足します。
同年高山市健康祭りがスタートし歯科衛生士会の協力のもと、フッ素無料塗布、歯科健康相談を設け、子供たちを中心に予防啓発活動を行い現在まで続いています。
平成10年には、高山ヒッツFM健康コーナーで歯科に関する放送を開始して好評の中今も継続しています。
平成11年 第49回全国学校保健研究大会が岐阜県で開催された際 歯科医部門で江名子小学校による研究発表が行なわれました。 同年介護保険がスタート。高山歯科医師会も介護認定審査委員として2年任期交代制で全員参加しています。
平成15年には、8020運動サポート事業がスタート、また平成17年新高山市誕生を契機に、管理センターでの診療は日曜日診療に移行しました。
以上が日本最初の歯科医師誕生から、今日までの歴史ですが、歴代会長と今日の歯科医師会について紹介させていただきますのでもう少しお付き合い願います。
先ほども紹介しました、初代会長の蒲寅三先生が、大正11年から、昭和18年までの21年間、次に西利吉先生が延べ10年間、藤井糺一先生が延べ13年間、後藤正二郎先生が7年間、田口忠夫先生が9年間、本日ご列席の西本弘志先生が、 昭和57年から63年までの6年間、同じくご列席の河合洋一先生が、昭和63年から平成6年までの6年間、そして現会長、垣内零先生は今日まで13年以上に亘り、先にご紹介した両先生と同じく、私たち会員のために常に私益より公益を優先して、激務を務めてみえます。
歴代会長のうち西利吉、藤井糺一両会長は岐阜県歯科医師副会長も務められました。
また、勳5等を昭和47年に、西利吉先生、53年に藤井糺一先生が、平成9年には西本弘志先生が、永年の歯科保健への貢献が評価され叙勲されました。
70周年を迎えた年、会員23名、16診療所でしたが。現在は新高山市誕生と共に、他支部から2名加わり、会員は37名、診療所は倍以上の37診療所に急増しました。
現在歯科界は、かつてない社会的にも経済的にも厳しい情勢におかれていますが、高山歯科医師会も多くの難題を抱えています。
しかし歯科医師法第一章、第一条、歯科医師は歯科医療及び保健指導を掌ることによって、公衆衛生の向上及び増進に寄与し もって国民の健康な生活を確保するとあります。
私たちは、垣内零会長を中心に、一体になって歯科保健の向上に尽力しなければなりません。その為には、会員間の思いやりと団結が不可欠であります。
最後に今日までの歴史を作っていただいた、諸先輩に敬意を払い。
本日ご臨席の皆様のご健康とご発展を祈念して報告を終わりたいと思います、ご静聴ありがとうございました。